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映画「后来的我们(Us and Them)」感想

中国語の勉強のモチベーションを探そうとNetflixで映画を探していたら、「后来的我们(Us and Them)」を見つけた。

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地方から北京に引っ越してきた若い男女が、電車の中で出会って色々あった後付き合い、また色々あって別れる。そして出会ってから10年後、北京行きの飛行機の中で再会して当時の思い出を語る、というストーリー。

 

ストーリーラインだけ見ればふつ〜〜〜のよくある話だし、私もぶっちゃけこれがNetflix上の数少ない中国映画の一つでなかったら観てなかったと思うんだけど、

なぜかこの映画にもうどハマりして、自分でもこの映画の何がこんなに刺さるのかわからないまま3週間くらい毎日観ていた。

 

ただ、この前友達にこの映画のストーリーを説明している時に

「あ、この映画の私にとっての軸はここだ」

と閃いたので、忘れないうちに書き残しておきたい。

 

※むちゃくちゃネタバレするので嫌な人はここから見ないでください。

 

自分は何をやりたいのかをどこまで捉えるか? 

この映画の主人公・方小晓と林見清は、2人とも地方から出てきて北京で成功しようともがいている。

小晓にとっての成功とは、北京で金持ちの男をつかまえて結婚すること。それを目指して色々な男と付き合うんだけど、結局うまく行かずに見清の家に転がり込み、見清と付き合い始める。

見清はゲームクリエイターになりたくて北京に出てきたが、なかなかうまくいかない。

 

見清は小晓のことがほんとうに好きで、小晓と見清の生活は貧しいけれども幸せそう。だが、見清は成功できない自分を認められない。
正月に小晓と一緒に実家に帰省した際に、見清はゲームクリエイターとして成功していると嘘をつき、地元の友達に高い夕食を奢るけれども、その嘘がバレていることを友人の陰口を聞いて知ってしまう。

 

見清は自分への怒りやら焦りやらで、自分の父親や小晓とだんだんうまく行かなくなる。小晓を無視するようになり、結局小晓は家を出てしまう。

が、小晓が出て行ったことでハッパをかけられたのか、見清はゲーム製作に取り組み、見事ヒット作を出し、お金を稼ぎ始める。見清は小晓のために家を買い、次の正月は一緒に実家に帰ってくれないかと頼む。

 

しかし、小晓と一緒に帰った先の実家で、小さい料理店を営む父親に見清は、ボロい料理店を畳んで彼と一緒に北京に住むように言うが、父親は見清が「ボロい」と形容したことに怒って拒否する。

見清は翌朝、小晓に彼に二度目のチャンスを与えるように頼む。今はお金も稼いでいるし、大きな家を買うこともできると。しかし小晓は、私があなたと一緒にいたのはあなたが好きだからで、あなたが家を買ってくれるからではない。あなたは私を理解していなかったし、これからもすることはないと言って去る。

 

で2人はほんとうに別れてしまい、見清は別の女性として結婚して子供もいるのだけれど、2人は出会ってから10年後、北京行きの飛行機の中で再会して、当時の思い出を語り合う、

 

というあらすじ。

 

 

私はこの、2人が別れた理由がすごく胸にきてしまった。

小晓は北京で良い男をつかまえて〜と適当なことを言っているように見えるしまあ実際行動はかなり適当なんだけど、

それでも「自分は何が欲しいのか?何がしたいのか?」ということを意識している。考えて考えて突きとめて、というよりは感覚的に掴んでいるように見えるけど、まあどちらにしても行動の軸は「自分が」何がほしいかだ。

 

一方見清はそれがわからない。もちろんゲームクリエイターになってお金を稼ぎたいくらいは考えているけれど、結局他人や社会からの評価にかなり左右されている。

北京で成功してお金を稼いで結婚して家庭を持ちたい、でもそれはなんで?なんで成功したい?なんでお金を稼ぎたい?なんで結婚したい?なんで家庭を持ちたい?それは本当にあなたが欲しいものなのか?それとも周りが欲しいものなのか?

これは思考力が弱いというわけではなく、社会の価値観を疑問視する機会がそれまであまりなかったからだと思う。

ただ、自分がいまいち周りの圧力や社会の価値観から抜け出せないからこそ、抜け出して自由であるように見える小晓にものすごく惹かれたのだろうけど、

結局この違いに小晓は絶望して別れたんだと思うんだよね。

 

見清にとってトリッキーだったのが、小晓の「自分は何がほしいのか?何がしたいのか?」というのは、その時々によって変わりうるということだ。

小晓はほしいものを捉える主体があくまでも自分なので、その時々に体験することや感情によって欲しいものは変わる。そしてその欲しいものを得ようとする。最初は北京でお金持ちと結婚して大きな家に住むことが彼女の欲しいものだけど、それは見清と付き合っていくうちに変わって、大きな家などなくても、見清と一緒に幸せに暮らすことが自分の幸せだ、となる。

けど、見清はそれがわからない。小晓は口では家なんかなくてもいいよと言っているけど、実は小晓も結局大きな家やお金が欲しいんじゃないかとずっと思っているから、溝が埋まらない。

これは、彼自身が結局大きな家やお金が欲しい人だからそちらの方が理解しやすいというのもあるだろうけど、一番は「彼の欲しいものは社会の価値観によってかなり固定されているので、小晓の欲しいものの流動性に追いつけない」ことが大きいんじゃないかなと思う。

小晓が欲しいものを主体的に捉える人間だとしても、その欲しいものがずっと「成功した男とお金」で変わらないとしたら、見清と考え方が違ってもその矛盾は表面化しなかったと思うのだ。まあその場合そもそも見清とは付き合ってない気がするけど。

 

2人が昔を思い出して語り合ってるところで、ここで君がこうすれば僕らは別れなかったんじゃない?って言い合うシーンがあるんだけど、何をしようと結局2人は別れてたと思うんだよな。

なぜならこの「自分が欲しいものは何かをどこまで捉えるか?」ってつまり、自分の人生をどれだけ主体的に選択するかということで、これは恋愛だけじゃなくて人生における決断一つ一つにつきまとうから。そこが一致しない限り、結局どこかで小晓は見清を振ってたと思う。

 

幸せなのはどちらか?

この映画でああめっちゃ現実的だなと思ったのが、結局北京で「成功」したのは見清だというところだ。
見清は妻も子供もいる。子供をかわいがってるシーンがある。妻は雪で電車が泊まって帰ってこない見清を責めてずっと私が子供の面倒を見ていると文句を言うんだけど、それも含めて「普通」とされる家庭を見清は手に入れたのだ、という描き方をされている。

一方小晓は最後のシーンで北京から地元に帰るシーンが映し出される。小晓は北京で「成功」することはできなかった。結婚もしていないし、帰りの飛行機で見清はビジネスクラスだけど、小晓はエコノミー。

考えてみれば当たり前で、北京での普通の幸せを手に入れるには、普通の価値観に沿って生きていくのが一番近道に決まっている。

小晓も見清を振らなければ、成功した夫と子供と大きな家が手に入ったわけで。ここで小晓が超優秀で強い女という設定だったら、自分で稼いで富を手にするか、北京すら飛び出して世界で活躍してますっていうラストもありうると思うけど、小晓はそういうキャラクターではない。自分の欲しいものはわかってるけど、それに最短距離で到達する道を考えて実行するタイプではなかった。

 

この映画では基本的に、見清が小晓を好きで諦められなくて、という描写が反対よりも多いんだけど、だからといって小晓が何でも手に入れたわけではない、というストーリーはすごく現実的で好きだ。

 

でも、だからと言って小晓は不幸せで、見清は幸せなのかな?

それか反対に、見清は不幸せで小晓は幸せなのだろうか。

 

これは本当に想像に過ぎないけど、たぶんどっちもそこそこに幸せでそこそこに不幸せなんだと思う。

 見清は小晓をずっと忘れられないみたいだけど、妻とは(不満はあるにせよ)一緒に生きていくつもりだろうし、子供はほんとにかわいいみたい。時々小晓のことを思い出すだろうけど、みんなそうするように、痛みを抱えながら幸せになるんだと思う。

 一方小晓も、北京で成功はできなかったけど、彼女が地元に帰るということは彼女なりにやりきったと感じたから帰るんだと思う。

自分がやりたいことをやるって言うほど簡単じゃない。周りの人が欲しいものと自分のやりたいことが一致してるならいいけど、そうじゃなくなったとき、何を切り捨てるか?という選択になるからだ。

自分のことをすごく好きな見清を捨てるのって、彼女自身もすごく傷ついたと思う。けど、そこで自分の生きたい人生を選んだ小晓だから、地元に帰ったのも納得した上での選択だったんじゃないか。時々北京での夢を諦めた挫折感を感じながらも、そこそこ幸せに生きていく気がする。これは私がただ信じたいだけかもしれないけど…

 

男の人は見清みたいになりやすい?

これを話した友達が「男の人は見清みたいになりやすいんじゃない?」と言っていて面白いなと思った。

というのは、現在の日本社会だと、女が社会的な成功を得たいと思った時、そこには様々な「なぜ?」が振りかかるからだという。なぜ東京に行かなきゃいけないの?女だからいいじゃない。なぜ専業主婦になるんじゃダメなの?女だからいいじゃない。なぜ転勤のないところに就職して子供が生まれたら時短勤務にするんじゃダメなの?あなたは女だから、メインで稼ぐのは旦那さんに任せたらいいじゃない。

一方男の人にとって、社会的な成功を得るのは、目指して当たり前だと思われていることが多い。男性が東大に行ってむちゃくちゃ年収の高い職を得たいと言ったところで、「なぜ?」を投げかけられる回数は、同じことを女性がしたいと言った時に比べて一般的には少ないだろう。

 

まあこの映画では、小晓は「都会に出て金持ちの男と結婚する〜」という、ステレオタイプな女の幸せを途中まで追い求めているのでこの例にはあんまり当てはまらないし、

今の社会だと、専業主夫になりたい男の人はキャリアを積みたい女の人よりも「なぜ?」と言われる機会は多いと思うんだけど、

自分が何が欲しいのか主体的に考える、という一見して個人の性質のように思えるものが、実は社会的な要素も大きいんじゃないか?

自分の社会的な属性に当てはめられたステレオタイプと違ったことをする人は、より自分が何が欲しいのか主体的に考える機会を与えられやすいのでは?

という気づきを得て面白かった。

(上で「一方見清はそれがわからない。もちろん考えてはいると思うけど、結局他人や社会からの評価が主体になっている。…これは思考力が弱いというわけではなく、社会の価値観を疑問視する機会がそれまであまりなかったからだと思う。」と書いたのは、これを考慮して書いた。)

 

以上!!!