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小さな中国のお針子と若き仕立て屋の恋

小さな中国のお針子

文化大革命期の中国。再教育のため山奥へ送られた医者の息子マーとルオは、過酷な重労働の合い間に村のお針子である美少女に出会い恋をする。やがて彼らが読み聞かせる西洋の小説が、彼女の人生を変えていく。

(引用:https://moviewalker.jp/mv33164/

陈坤が観たくて借り、ドンピシャだった。恋愛をあまり真剣でないタッチで描き、若さや社会情勢や人間としての自立が絡んでくるという、いかにも私が好きそうな感じの映画だったw

舞台である山村の雄大な風景、村人の服装、マーとルオのいかにも若者という感じのエネルギーと傲慢さ、そして二人の無意識なコントロールを大きく裏切っていくお針子、全部良かった。刘烨かっこいい😭

小さな中国のお針子 [DVD]

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 「フランスの小説が中国の田舎者を変える」というテーマはいかにもオリエンタリズム丸出しで、実際この映画は監督は中国人だがフランス資本である。なので、私もマーとルオが西洋の小説を盗み出し、これをお針子に読み聞かせて「お針子を無知から救おう」と話しているところは、自分にも覚えがあるしこの年代なら言いそうなことだなと思いつつ、フランス資本の映画でこれ…おえっっっとなった。

しかし、マーとルオが持ち込んだ西洋の文化やフランス文学は、村やお針子に徐々に変化をもたらすのだが、その変化の描き方があまりオリエンタリズムらしくないなと思った。なんというかすごくリアルなのである。

マーとルオはフランス文学をフランス語で読んでおらず、中国語翻訳を読んでいる。お針子は文字が読めないので、彼らに読み聞かせてもらう。ルオはバイオリンを村に持ち込み咎められるも、毛主席に捧げられた曲と嘘をついてモーツァルトを弾き、村人に受け入られる。村長はバイオリンの音色は気にいるが、フランス文学をお針子の祖父に読み聞かせていたマーとルオを公安局に突き出そうとする。

マーやルオ、お針子、そして村人たちはみんな、西洋文化に影響を受けるが、彼らがどうやって・どういった形で西洋文化に触れ、何に影響を受け、それがどう彼らの生活を変えていくかはそれぞれ異なる。

それがすごくリアルである。マーとルオは西洋の文化によってお針子を啓蒙しようと考えるが、それも西洋文化の影響と考えると面白い。

 

また、バルザックなどの西洋文学の著者と同じくらい、翻訳者にも光が当てられているのが良かった。作品の途中で、ルオが知り合いの医者に頼みごとをする場面がある。頼みごとのお礼としてバルザックの作品をあげますと言って、服の裏に書き留めた中国語訳されたバルザックの作品を読み上げる。すると医者は翻訳者の名前を挙げ、彼の文体はすぐにわかると言う。そして医者が彼のような優れた文章を書く人間も今は反動分子として投獄されたと言うと、ルオは不意に号泣する。

 

なんとなくだが、実際に非西洋圏で育った人間でないと、このようなやり取りは書けないんじゃないかと思った。非西洋の人間が西洋文化に初めて触れるとき、ほとんどは原語では読まずに自国の言葉に訳された作品を読むはずである。それは文革時代の中国だけでなく、現代の日本でも同じだろう。なぜなら自国の言語で読んだ方が早いし、楽だし、何より手に入りやすいからだ。

そういった状況で西洋文化が人間に影響をもたらすには、元の書籍と同じくらい、「翻訳」が重要になる。

複数の文化圏の作品を理解できること自体すごいことだが、それに加えて翻訳者自身が優れた文章を生み出せる人物でないと、元の文学がいくら優れていてもその伝播力・影響力はほとんどゼロになるだろう。また、この「翻訳」は多層的でもある。マーとルオは中国語訳された作品を、文字の読めないお針子やお針子の祖父のために読み聞かせるが、中国語を話し、飽きないような話し方ができ、彼らの知らない単語をわかりやすいよう(文革という社会情勢を踏まえて)説明したりすることができないと、この役割は務まらない。

 

つまり、作品が他の文化圏の人間に影響をもたらすには、ほとんどの場合その作品の力だけでなく、その作品を理解し違う文化圏に様々なレベルで翻訳する者の力が絶対に必要で、彼らなしに文化が広がっていくことはありえない。

この映画はそこに光が当てられており、翻訳されていく過程もリアルだと思った。だから「西洋文化が中国の田舎者を変える」という筋でも、オリエンタリズムの香りがあまりしない。監督の戴思傑のWikipediaを見たら、実際に四川省下放を経験し、そのあとフランスに留学した人ということがわかって納得した。

 

周迅演じるお針子は、マーとルオの「教育」を受けた結果、自由を渇望して二人が知らないところに飛び立ってしまうさいこ〜なキャラクターなのだが、本人も最高だった。

というのも、映画を観終わった後、メルカリでパンフレットを手に入れたのだが、周迅が役者インタビューに答えていた。インタビュアーからの質問で「バルザックのことは以前から知っていましたか?」というものがあった。映画の内容を考えれば、以前から知っていようと知っていなかろうとバルザックや西洋の文学の素晴らしさや影響力に触れる流れになりそうなところだ。しかし、周迅は

あなたは、魯迅郭沫若や曹雪芹や巴金を知っていましたか?

と返すのである。爽快感ヤバ!!!てか、頭良!!!!

劇中ではそんなにオリエンタリズムぽくないとはいえ、食傷気味になるくらいバルザックバルザックと繰り返されるので、周迅のこの返しは映画全体をひっくり返す清々しさがある。

若き仕立て屋の恋、2046

DVDプレイヤーが手に入ったので、買ったまま放置していたウォンカーウァイの「若き仕立て屋の恋」と「2046」を観た。若き仕立て屋の恋は短編ということも関係するのか、ウォンカーウァイにしては珍しくしっかりしたストーリーがある。2046は筋は他の作品同様フワフワしているが、2時間越えで割と長め。 

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ウォンカーウァイの映画は感想を書くのがいつも難しい。記録のためにブログに書いても、何が刺さったのかの10分の1も言い表せない感じがする。

 

部屋でゴロゴロしててふと、ウォンカーウァイが影響を受けた文学作品について、欲望の翼のパンフレットで本人が語っていたのを思い出した。そのパンフレットをなくしてしまいどっかのサイトに載っていないかなと思って検索したら、お目当の情報は見つからなかったがこの批評がヒットした。

この批評ではウォンカーウァイ映画の閉鎖的な空間性が注目されており、「部屋を内側に向けて突き抜けた先に救いがある」と指摘されている。偶然出会った批評だが、胸にすとんと落ちる感覚があった。彼の作品の何が刺さるのか、この批評を読んで、解放感と社会との関係の希薄さが刺さる要素の一部かなとクリアになった気がする。

 

多くのウォンカーウァイの作品では、恋愛がテーマでも、恋愛以外の可能性が常に提示されている。最終的にそのキャラクターが置かれている状況が無茶苦茶なことになっても、最終的に何か外につながるような解放感が見える気がするのが好きなのだ。救いであり、それは常に外につながっている。

閉塞を突き詰めた結果解放を得るというのは全然考えたことがなかったが、この批評を読んで納得したし、私が欲望の翼だけいまいち好きになれない理由の一端が見えた気がした(まあ欲望の翼のカリーナラウは衝撃的にかわいいと思っているので上映してたら観に行くけど)。2046はわかりやすくこの構造だろう。主人公は昔の恋愛に囚われ私生活がぐちゃぐちゃになっているが、自分のホテルの部屋で小説を書くことでぐちゃぐちゃな生活が少し解ける。そこに主人公を救いに来てくれる現実の他者は存在せず、彼の思考のみが彼を変化させられる。

 

また、私はほとんどの彼の映画のキャラクターたちに「社会」を感じないところがすごく好きである。職業がわからない人々も多いし、職業があってもすぐ捨てるし、すぐ香港を出るし、そしてすぐ戻ってくる。設定だけでなく描き方が人物の感情にぐっとフォーカスしていることもあるかもしれない。不倫がテーマの花様年華でさえ、世間が顔をのぞかせるのは大家さんのいくつかのセリフのみである。舞台は現実の社会だから社会との関係が完全に切れているわけではないが、すごく希薄に感じられる。(若き仕立て屋の恋は例外で、珍しく仕立て屋と娼婦という職業がストーリーに強く紐づいている)

 

この批評では、『恋する惑星』のフェイ・ウォントニーレオンも含め他人とのコミュニケーションを拒絶していることを指摘している。あんなに明るい映画なのに!でも確かに、コミュニケーションを拒絶しているからこそ、フェイは社会から切り離されている感じがするのかもしれない。恋する惑星を観たとき、最初に衝撃を受けたのはトニーのかっこよさだったが、決定的に恋に落ちたのは、フェイがトニーと待ち合わせた「California」という店の看板を観て、本当のカリフォルニアに行きたくなって約束をすっぽかして行ってしまったシーンだったことを思い出した。しかしフェイはキャビンアテンダントになってふらっと香港に帰ってきて、トニーは「君のどこでも好きなところ」に飛ぼうと提案する。そこにも私は救いを感じる。

 

最後に、この批評は以下のように述べている。

この論考では、ウォン・カーウァイ的「個室」を個人の孤独や閉塞、硬直の表現とそれ自体はひねりなく受け取りながら、その空間がどのように構成され、かつどのような変容によって開かれようとしているかを考察してきた。こうした読み方は、いささか個人的な方向に傾きすぎたていたかもしれない。ウォン・カーウァイの映画には、その明示的なストーリーがどれほど登場人物たちの私的な孤独や記憶にこだわるものだったとしても、よく見れば「香港」という社会的・政治的な場への言及に満ちているからだ。しかし、「香港」という視点からのウォン・カーウァイ読解が、しばしば「香港」の持ついくつかの定型的イメージ—アイデンティティの希薄さ・流動性、あるいはそれへの反動としての香港アイデンティティの希求、移行期的・経由地的な時空間性など—に寄りかかりがちであることも否定しがたい事実だろう。

この箇所は本当に膝を打ちまくった。今まで読んだ批評は、香港という都市が抱えるイメージや歴史的な経験をウォンカーウァイの作品に重ね合わせるものが多かったが、こういう分析は好みじゃないなと思っていた(間違っていると言っているわけではない)。私がそもそも香港イメージの正当性自体にだいぶ懐疑的というのがあるが、それ以上に、私はウォンカーウァイ映画の社会性が希薄なところが好きなのに、香港の社会的・政治的な文脈を映画の批評に持ち込まれると、社会に引き戻される感じが嫌なんだろう。

 

この批評は、私がウォンカーウァイ映画の好きなところを、私が自分では到達できないところまで深く掘り下げてくれている感じがする。私が今までしてきた勉強は皆、何かしらの形で社会と関わる分野が多かった。政治とかジェンダー論とか。私は勉強を通じて社会構造を語る語彙は獲得してきたが、社会とは関係が希薄だと思いたいものを語る語彙が無いことに気づいた。いつもウォンカーウァイの作品は何が好きなのか語るのが難しいと思ってきたが、それはまず語彙がなかったからなのか!この批評は、私が使いこなせない語彙を使って、私が魅力と感じていたことにより深く切り込んでいく。すごく爽快だった。