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王家衛の新作ドラマ「繁花」

中国で王家衛の新作ドラマ「繁花」が大ヒット中だ。

 

このドラマ、版権を取得したのは2013年だというから、制作全体で10年もかかったようだ。さすがの王家衛である。そのおかげで私は、中国に留学しているタイミングでドラマを追いかけられることになった。

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90年代の上海はチャンスと希望に満ち溢れていた。青年・阿宝は、改革開放の風に乗ってビジネスの道を切り開き、黄河路に知らない人はいない新進気鋭の事業家「宝総*1」となる。阿宝の周りには師匠の爺叔、「夜東京」のオーナー玲子、上海外国貿易局の汪小姐という人々がいる。

ある時、神秘的な女性・李李が黄河路に舞い降りた。彼女が経営する料亭は街全体をかき回していく。宝総の事業にも激動がもたらされ、身近な人との関係もかつてない試練を迎えることとなる。(参考:百科

 

このドラマは、上海出身の小説家・金宇澄が、2012年に出版した同名の長編小説を原作としたものである。王家衛は香港の監督というイメージが強いが、元々は上海出身で、5歳のときに香港へ移住したそうだ。「花様年華」でも、主人公2人が暮らすアパートの住人が上海語を話すシーンがある。

小説「繁花」について、王家衛は「上海版の『清明上河図』のような作品」「上海人と上海文化の辞書」と評しており、原作者に初めて会った際には「これは自分の姉や兄の物語だ」と伝えた、と語っている。

 

ドラマと小説でストーリーは全然違うらしいが、ドラマの重点もやはり上海版の『清明上河図』、つまり当時の上海社会の一部を、王家衛の視点から描くことにあると言っていいだろう。*2

以前王家衛の映画について「社会を感じないところが好き」と書いたことがあるが、今回のドラマはむしろ反対である。また、映画とは異なり、30話あるドラマなので、映画に比べてわかりやすい物語が存在し、物語の展開を通じて登場人物を細やかに描いていく。なので、これまでの考えるな感じろ的な王家衛映画とはかなり毛色が違う印象を受ける。

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しかし、今回の物語にも、これまでの映画と変わらない王家衛の哲学がしっかりと流れていて、映画とはまた違った形で登場人物が立体的に浮かび上がってきて、想像以上に傑作だった。

 

私が王家衛映画の「社会を感じないところが好き」な理由は、登場人物を、当時の社会情勢や「恋人」「夫婦」といった関係に付与される規範に安易に回収させずに描くからこそ、かえって登場人物ひとりひとりの内面が鮮やかに魅力的に浮かんでくるからだ。

この登場人物に対する深いまなざしは繁花でも健在である。

後ろ盾を拒否する女性たち

私がこのまなざしを最初に感じたのは、阿宝と汪小姐・玲子の関係性の変化を描くシーンだった。

ドラマの前半、汪小姐は上海外国貿易局の職員として阿宝の商売を助け、玲子は阿宝と一緒に開いた「夜東京」のオーナーとして、阿宝が安心できる場所を提供している。

二人とも阿宝と深い絆で結ばれているが、彼女たちが阿宝に対して本当に欲しているのは恋愛感情であり、それが阿宝から返って来ることはない。しかし、謎の美女・李李の出現を機に、汪小姐と玲子はそれぞれ現実を思い知ることとなる。

ここまではよくある色男をめぐる恋愛物語である。阿宝にとって、汪小姐は可愛らしい彼女、玲子は安心感を与えてくれる妻のような存在として描かれている。

しかし、李李の出現を機に現実を見つめ直した時、汪小姐と玲子が最も大きなショックを受けるのは、「阿宝が自分を愛してくれないこと」ではなく、「阿宝の名前がないと何もできない自分」だった

汪小姐がちやほやされるのは皆阿宝に繋いでくれることを期待しているからだし、玲子が「夜東京」の経営をなあなあに続けていられるのは阿宝の財力があるからなのだ。恋愛面での打撃を機に、自分の人生を見つめ直した結果、二人は阿宝ありきの自分を抜け出すことを選ぶ。

「阿宝と女性たち」という構図をとっておきながら、「女性たち」は決して阿宝の付属品にならない。

阿宝との関係は感情のみならず経済的な関係も大きかったから、阿宝ありきの自分を抜け出すのは簡単ではないのだが、二人が苦労を重ねて一つ一つ前に進んでいく様子は爽快感と開放感があり、そして絵として美しい。

 

黄河路にやってきた謎の美女・李李と阿宝の関係も面白い。ドラマの中で、黄河路の料亭は「ただ食事をする場所ではなく、商売を成立させる場所」として描かれており、李李たち老板娘は、阿宝たちビジネスパーソンの商売を左右する、対等な相手として描かれる。

李李と阿宝は恋愛関係ではないが、ただの商売相手でもない、独特な関係を築いていく。これって男性と男性の間だとよくドラマに出てくる関係性だが、女性が絡むと、ほとんどのドラマで「恋愛関係」もしくは「結局女性が男性に助けてもらう関係」という安易な類型に収束されていってしまう。

この類型に収まらないのが、さすが王家衛である。

 

李李・汪小姐・玲子の関係も良い。玲子と汪小姐はお互いの新しい道を支援しあい、李李も汪小姐の可能性を見込んで支援し、玲子が李李が経営する料亭に来た際には「夜東京」のオーナーとして特別丁寧に応対する。

3人はそれぞれ阿宝と深い繋がりがあるけれども、3人の関係は阿宝によって定義されない。

自立した人間なので当たり前のことだが、それを当たり前のこととして描く作品は少ない。

映像の美しさ

脚本の良さだけでなく、映像の美しさも健在だった。正直脚本がゴミだったとしてもこの映像なら30話見れる。

影と光の使い分け、立体感、鏡の多用、物陰からぬすみ見ているような撮り方、欲望の翼花様年華のオマージュ等、もうファンとしてはたまりませんでした!!

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役者全員、これまでの作品で一番美しく撮られており、特に胡歌(阿宝)と辛芷蕾(李李)は、花様年華にも引けを取らない美しさだった。

実際、12話には花様年華のような、二人が雨に濡れた道を歩くシーンがある。また、狭い階段で肩が触れるようにしてすれ違うシーンも多々登場する。二人の視線はめったに交差せず、常に一方の目線は鏡の中か、どこか遠くに外れている。

余談だが、中国語を勉強し始めて、「すれ違う」にあたる中国語の言葉として「擦肩而過」という言葉があることを知った時、花様年華まんまじゃん!と感嘆した。以降、この言葉を見るたびに私の脳内では常に花様年華の映像が流れている。

また、今回観ていて何となく思ったのは、王家衛のこのとにかく美しい映像は、群像劇とかなり相性が良いのではないかということだ。

このドラマは上記の阿宝と爺叔、3人の女性以外にも、元カノの雪芝、親友の陶陶、大家の葛老师、取引相手の範総・魏総、玲子の友人の菱紅、玲子を追いかける強総、汪小姐の師匠の金花、同僚の梅萍、李李の部下の潘経理・敏敏、汪小姐が左遷された先の工場長・老範、李李を敵視する盧美琳、黄河路で成功しようともがく小江西などなど、多くのキャラクターが登場する。

王家衛は彼らをただの脇役にせず、一方で彼らの物語を一から細かく説明することもなく、それぞれのハイライトとなるシーンを圧倒的に美しく深い映像で映すことによって、一人一人のキャラクターを際立たせ、我々観客を一人一人に感情移入させることに成功していると思った。

彼らが画面に映る時間は限られているはずなのだが、観客が菱紅が玲子のもとから去るシーンで涙し、金花が汪小姐に切手を贈るシーンで涙し、範総と汪小姐が「江湖再見!」と言って別れるシーンでまた涙するのは、映像の力も大きいと思う。

私が男性キャラクターで一番好きなのは魏総

日本で育った者として胸熱だったのは、16話の銀座を舞台としたシーンだ。

まだ阿宝がそこまで成功していない頃、彼は日本の商社の知り合いである山本さんに会って取引を成約させなければならず、一人で東京に来る。山本さんに夜、銀座のクラブで会おうと言われ、言葉がよくわからないまま訳もわからず銀座に来るのだが、そこで上海話を話す女性に偶然出くわす。これが玲子で、彼女の助けで阿宝は山本さんと上手く話を進めることができ、仕事を軌道に乗せることができる。

それから数ヶ月して、玲子の元に阿宝から封筒が届く。封筒には上海行きのチケットと、玲子が阿宝に話した夢を叶えるある物が入っていた。

玲子と一緒に私たち観客が目を見開いて感極まったとき、小田和正の「ラブストーリーは突然に」が流れ始めるのだ!

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歌詞とメロディと年代と、全てがこのシーンに合っていて、玲子の感情が胸に迫ってくるようで、「ああ、だから玲子はこんなにも阿宝のことを愛しているんだな」と心から納得できる名シーンだ。

驚いたのは、このシーンの弹幕に多くの中国人が「東京ラブストーリーだ!」「青春を思い出す」と書いていたことだ。

当時、中国でも大流行し、特に上海では他の地域より一足早く放送されたようである。私は東京ラブストーリーの世代ではないというか、観たことすらないのだが、日本で生まれ育った私が観たことのない作品を、当時中国で育った人々(の一部)が青春の象徴として記憶しているのは、両国の文化が混ざり合っていくようで感慨深く感じてしまった。

執迷不悔

ラブストーリーは突然に」以外も、劇中で使われた音楽は全部素晴らしかった。私のお気に入りはフェイ・ウォンの「執迷不悔」だ。この曲は途中から汪小姐のテーマ曲のような扱いで、彼女が自分で考えて自分で決断する時、この曲が流れる。汪小姐が汪小姐から小汪へ、小汪から汪総へ脱皮する姿を彩るような曲として、恋する惑星のフェイ役・フェイウォンの曲が使われてるのはぐっとくるものがある。

我不是你们想得如此完美
我承认有时也会辨不清真伪
并非我不愿意走出迷堆
只是这一次
这次是我自己而不是谁
要我用谁的心去体会 
真真切切地感受周围
就算痛苦 就算是泪 
也是属于我的伤悲
我还能用谁的心去体会 
真真切切地感受周围
就算疲倦 就算是累 
也只能执迷而不悔

 

わたしはあなたたちが思うような完璧じゃない
本物か偽物か見極めがつかない時もあるけど
わたしは絶対にこのこだわりから抜けたくない
今この時は この瞬間は 他の誰でもない私でいたい

誰の心で感じろというの 
はっきりとわたしの周りをわたしの体で感じるの
たとえ苦痛でも 涙しても 
これは他の誰でもない私の悲しみ
ほかの誰かの心で感じられるというの
はっきりとわたしの周りを体で感じるの
たとえ疲れてへとへとになっても 
まだわたしはやっぱりこだわることしかできない

 

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私が劇中で一番好きなのは李李だが、最も感情移入して泣いたのは汪小姐だ。彼女が阿宝の助けを拒否して自立を選ぶ過程は、見ようによっては頑迷で、現実が見えていなくて、「執迷不悟(まちがった考えに固執して悟らないこと)」にも見える。それでも自分のこだわりを捨てず、苦難の末「自分の埠頭」を獲得する姿は、自分自身の辛い時を重ねて彼女を好きにならざるを得ない。

 

原作の結末だと、汪小姐は出産することになっているそうだ。インタビューで、王家衛はこれを彼女の自己実現の物語に変更したと言っていた。出産が自己実現にならないとは思わない(し、王家衛もそう言ったわけではない)が、汪小姐の結末が出産のみで起業というストーリーがなかったら、彼女はここまで多くの観客を惹きつけなかっただろう。玲子や李李の結末も然り、繁花では最後、すべてのキャラクターが、自分で決断して、自分の道を歩んでいく。

王家卫:上海女人的底气主要来自她们是全国第一批经济独立的半边天。我们保留了原著里面汪小姐的敢爱敢恨,把她的追求从延续生命生孩子改成她个人的自我完成

繁花[沪语版]【特辑】主创解读角色两面性_电视剧

自分で決断するというのは孤独が伴う。繁花でも、キャラクターたちは自分で決断した結果、黄河路を去り、上海を去り、大切な人との縁が切れていく。しかし、そこには解放感が確かに漂っている。阿宝も例外ではない。彼のラストシーンは、「ブエノスアイレス」で最後に流れる「Happy Together」のような、繁花の中で最も王家衛らしさを感じる、不思議な清々しさであった。

过去无所不在
遇到过的人 发生过的事 组成我们的身体发肤 呼吸心跳
生命之树循环往复
我们知道自己在每个春天会开出什么样的花
也知道秋天一定不会结出什么样的果
但我们依然会期待下一个冬去春来
繁花似锦 赤子之心常在
人不响 天晓得

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*1:「総」は「総経理(=社長)」の略で、姓の後につけて社長に対するよびかけに使う言葉。相手の実際の役職が社長でなくとも相手への敬意を表すために使うことも多い。このドラマにも色々な「○総」が登場する

*2:このドラマには普通話(中国全土で話されている標準語)と上海方言バージョンがある。現場で俳優が話しているのは上海方言で、撮り終わった後に同じ俳優が吹き替える形で普通話バージョンを作成している。私は自分の勉強のために普通話バージョンで観ていたが、そんな私ですら上海方言バージョンの方が圧倒的に良いと感じたので、日本に上陸する際には上海方言バージョンに日本語字幕を当てる形で配信してほしいなと思う!ちなみに原作は全て上海方言で書かれているが、日本語訳本はこれを関西弁で訳している。私は上海方言は全くわからないし、関西弁話者でもないので、ニュアンスの違いを比較できないのが残念だが、中国語の方言を日本語の方言で訳せる人材がいることにびっくりした。